<特別対談:Bリーグ宇都宮ブレックス所属 喜多川 修平 選手>

非エリートキャリアからトップクラスのプロスポーツ選手になるまでの道のり~「成長意欲」を持ち続け、「自分のすべきこと」をやり続ければ”道”は開ける~

何らかのイメージ

株式会社コムレイズ・インキュベートの代表の長谷川です。弊社は企業様の新規事業、およびベンチャー企業様のセールスやマーケティングを支援させていただいております。当社はこの度、Bリーグ宇都宮ブレックスに所属する、喜多川 修平選手の個人スポンサーをさせていただくこととなりました。喜多川選手とは、中学生時代よりバスケットで競い合ったライバルであり、高校時代には同じチームで汗水を流した仲です。喜多川選手は非エリートキャリアでありながら、たゆまぬ努力とチャレンジ精神で今やバスケットのプロリーグであるBリーグを代表する選手の一人となっています。

弊社が支援させていただいています、企業様の新規事業やベンチャー企業様のチャレンジは、まさにビジネスでの「挑戦」です。ビジネスへ挑戦するお客様、また今回の喜多川選手のように常にチャレンジし続ける方たちを、わたしたちは全力でサポートしたいと思っております。また、弊社を毎日支えてくれている社員たちも皆、「今よりももっと高みを目指す」挑戦者ばかりです。

このように、全力で挑戦する者たちを、全力で支援し続けることで、世の中に新しい価値を創造することに貢献していきたいと思っております。今回はスポンサー就任記念ということで喜多川選手と対談を行ない、”バスケット”というカテゴリでチャレンジし続ける、その姿勢を学んできました。

Bリーグ宇都宮ブレックス所属

Bリーグ宇都宮ブレックス所属

喜多川 修平

小学校時代は少年野球に打ち込む。川崎市立菅生中学校にてバスケットボールを始めるも地区大会で敗戦し特筆すべき戦績はなし。高校は桐光学園高等学校に進学。高校1年生からコンスタントにプレータイムを得て、高校2年生からは主力選手として活躍。ただ、目標としていた全国大会出場には至らず。大学は専修大学に進学。セレクションに合格しバスケ部に入部。大学では2年次よりプレータイムを得て、4年次には主力選手として活躍。

  • 2008年:大学卒業後、アイシンシーホース(現 シーホース三河)へ入団。
  • 2014-15シーズン:主将としてチームを優勝に導く。
  • 2015年6月:bjリーグの琉球ゴールデンキングスに移籍。
  • 2015-2016シーズン:チーム4度目の優勝に貢献。(NBLとbjリーグ双方で優勝を経験した唯一の選手)
  • 2016-17シーズン:開幕戦ではMIP賞を受賞。
  • 2017年7月:Bリーグ初代チャンピオンの栃木ブレックス(現 宇都宮ブレックス)へ移籍。
  • 2017-2018シーズン:Bリーグベスト3P成功率賞を受賞。
  • 2018-2019シーズン:2018年8月の練習中に右膝前十字靭帯断裂および右膝外側半月板損傷という大怪我を負うも、シーズン終盤にカムバック。
  • 2019-2020シーズン:チーム優勝という目標に向けて挑む。
---- 目次 ----

1.最初は楽しくてやっていたバスケ。でも同級生には負けたくなかった

長谷川:まず純粋に気になることとして、中学、高校ではそんなに目立った成績を残せていなかったと思うんだけど、そのときからバスケットのトップリーグ(プロ)に行きたいと思っていたのかな?

喜多川:中学、高校のときは全然そういうことは思っていなくて、正直バスケが楽しくてやっているというのが強かったかな。でもその中でも競争意識みたいなのはしっかりとあって、例えば中学のときだったら平中(*長谷川と喜多川選手は川崎市の隣接中学校同士)に長谷川というスター選手がいてさ(笑)

長谷川:いやいや(笑)。うれしいね~!

喜多川:本当に「同級生ですごいやつがいるな」と思っていて、それに対して絶対負けたくないなという気持ちはあったね。自分が見て「ああ、いいプレイヤーだな」と思った選手に対して、勝手にライバル心というものは持っていたね。

長谷川:負けたくないという意識がもともとすごく強かったのかな?

喜多川:そう。高校に入っても、やっぱり全国大会に行くようなレベルではなかったから、見る側でいることが多くて。そんな時も同級生ですごいやつがいると、「絶対負けない!」というメラメラした強い気持ちはあったね。もちろん、直接試合で対戦できるわけではなかったんだけど、そういった気持ちをモチベーションとしてバスケをやっていたね。だから、その時点では「絶対プロに行って成功してやる!」ということはあまり考えていなかった。

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長谷川:なるほど。当時、チームのレベル的には全国に出ることを目指しているチームだったと思うけど、個人としては「全国レベルの選手にも負けたくない」という気持ちでやっていたんだね。当時から目指している目標、視座が違っていたんだね。

喜多川:埼玉のガリバーカップとかあったよね。そこに強豪チーム、当時の能代工業も参加していたりして。

長谷川:うんうん。覚えてる。 僕らの代は能代工業が全国優勝したもんね。

喜多川:そういった機会があってトップレベルの実力を肌で感じることができて、試合はボロ負けしたけども「絶対やれる!」という何かは感じていたと思う。

2.一般入学で入った強豪大学。コーチへの直談判がバスケ人生のターニングポイント

長谷川:なるほど、そういった経験が自信につながったと。でも実際、喜多川選手はそのレベルでもやれていたよね。ちなみに専修大学には、スポーツ推薦とかではなく指定校推薦で入ってたよね?

喜多川:そうそう。入学前に「サラダリーグ」というのを見に行ったときに、専修大学が試合をしていて。試合前のウォーミングアップから雰囲気が違って、実際試合が始まったらめちゃめちゃ上手い人ばかりで、それに一目惚れしてしまって。

長谷川:中川(直之・和之)兄弟の方々がいたよね。

喜多川:そう。もう一目惚れして、「大学でバスケするなら絶対ここだ!」という決意をして、指定校での入学を目指した。先生には「関東二部でやった方がいいんじゃないか?」という話をもらっていたけど、「いや、絶対行く。絶対ここでやりたい」と言って。

長谷川:そうだよね。強豪大学だから全国から名だたる選手が集まってきて、一般入学で学校に入っても絶対にバスケ部に入れるという保証はないもんね。

喜多川:実際、高校の最後の大会もふがいない負け方だったから、正直「バスケ駄目かな」という気持ちだったけど、でも専修の試合を見て、刺激を受けて、またやろうという気持ちになって。そこからまた体を動かし始めて、専修のバスケ部にはトライアウトで入ったんだよね。スポーツ推薦で入部が決まっていた同期から連絡先を聞いて、トライアウトの情報を聞いてもらって。「よし、じゃあその日までにしっかり準備していこう!」ということでトライアウトに向けて準備をして、受けたら「おいで」と言ってもらえて。

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長谷川:そうだよね。トライアウトで落ちる可能性も全然あったんだよね。

喜多川:そう。大学にはもう入学したけど、実際にトライアウトを落ちたらバスケ部には入れない。その場合、サークルに入っていただけかもしれなかった。

長谷川:すごいチャレンジだよね。関東二部の大学に進学すれば入部はもちろん、試合に出て活躍もできる可能性が高い。一方で専修大学に進学するということはバスケ部に入部すらできない可能性もある。喜多川選手の実力からすれば落ちることはなかったと思うけども、可能性としては全然ある話だし。

喜多川:全然あったね。周りが大体スポーツ推薦ばかりだったし。

長谷川:一般の人は逆にほとんどいない?

喜多川:あまりいなくて。2年、3年、4年生それぞれに1人ずつぐらいの人数だったから、一般で入って「正直どうなるんだろう」という不安はあった。

長谷川:そうだよね。でもやっぱりそこは「専修でやりたい」という、「高いレベルでやりたい」という思いだよね。でも、そこからすぐ、2年生ぐらいで試合出ていたでしょう?

喜多川:そうだね、2年ぐらいだったかな。

長谷川:3年ぐらいでスタメン。どうやって上り詰めたの?

喜多川:トライアウトして入れたのだけど、1年目最初の春のトーナメントではベンチ外で応援団としてチームを応援していて。でも、そのときも「自分のやるべきこと」つまり、自分の得意なところや決めたことはやり続けていて。試合には出られなくても、上手くなりたいという気持ちが強くて、当時の中原雄ヘッドコーチに「僕を育ててくれ」という話を直談判しに行った。その当時、中川和之選手という人が理想の選手で、「ああいう選手のように僕を育ててくれ」と。そしたら、中原さんが「お前は中川カズになる必要はないんだよ」と。「お前という“存在”を確立していけばいいから」という話をしてもらって、そこから、やるべきことがよりシャープになって。
その前まではベンチ外だしそんなに目に止まること自体もなかったと思うけど、自分が成長したいという強い意欲があって、それを思い切って行動に移して、直接話に行った。
今思えば、その決断は、バスケ人生の大きな“ターニングポイント”かなと。

長谷川:なるほど。現在の立場というか自分のポジションとかを考え過ぎてしまって、その一歩を踏み込めなかったりするけど、そういったことを考えずにとにかく上手くなるために行動に移したと。素晴らしいね。

3.自分で決めたことをやり続けて、実力と評価を積み重ねていった

長谷川:そして、そこからはウナギのぼりだったよね?

喜多川:でも2年生の時に一度スタメンになったけど、すぐ控えになってしまって。ただ、その中でも自分で決めたことは絶対にやり続けて。だから、ウナギのぼりというか、積み重ねていけたのかなと思う。

長谷川:その当時トップリーグはJBLか。JBLを意識したのはいつ頃から?大学?

喜多川:本当に明確にバスケで飯食っていきたいと思ったのは、大学4年の最後のインカレで2回戦ぐらいでころっとあっさり負けてしまって。「このままで終わっていいのかな」という思いが強くて。それはやっぱりショックだったし、もっとやれると思ってたから。

長谷川:なるほど。まずは「バスケがうまくなりたい」という気持ちが一番強くあって、そのために1個1個努力して上手くなって。その結果どんどん自分のプレイがレベルアップしていくから、できるステージもどんどん上がっていくと。その努力が報われて、4年のインカレで負けてもその後すぐアイシン(現シーホース三河)から話が来たと。

喜多川:それも結構いろいろあって。最初はアイシンとは別のチームから「興味がある」と言ってくれてて。「そこで、プロに行けるという」という勝手な想像をしてたんだけど、実際その後にしっかり話が来たかというと来なかった。入団が決まっていたわけではなくて、「じゃあ、ちょっとトライアウトに来ない?」という感じでトライアウトを受けて。手ごたえはあったから自信たっぷりで戻ってきたんだけど、実際その数日後に電話が来て「今回はちょっと……」ということになってしまって。でも、そのチームに入るつもり満々で、他のチームとの話はしていなくて。だから、もうアテが何もなくなってしまったから、そこからいろいろ選択肢を広げるためにbj(リーグ)のトライアウトを受けたり、いろいろなところに顔出したりして。そこで今までの努力をちゃんと見てくれていた人がいたのか、当時のアイシンのコーチとコンタクトとることができて、「じゃあ、社員契約だったら」ということで採ってもらったという感じかな。正直、プロになるのもすんなりとはいけなかった。

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長谷川:なるほど。大学で活躍するまでの過程が、多分ほかのエリートと呼ばれる選手達と違うじゃない?いろいろな壁を乗り越えてきて、努力した量も違うだろうし。やっぱりそのプロセスで培った何だろう、「人間力」というかスタンスという、人から尊敬されるような人間性を評価してくれたというのもあるはずだよね。単純に技術が上手くなるとか、例えば仕事ができるようになるためだけじゃなくて、ちゃんとそのプロセスの中で自分の人間力を高めることで、自分のスキル+αで何か色々な機会が舞い降りてくるというか。それは、例えば喜多さんと同じぐらいの技術レベルの人間がいたとしても、絶対喜多さんを採ると思う。これは間違いない。チームのため、プレイ以外の影響もあると思うし。

4.「上手くなりたい!」という気持ちの一心で、より厳しい環境へ

長谷川:それでアイシンに入って、最初プレータイムはもらえていなかったかもしれないけど、最後の方はものすごく活躍してたじゃん。でもそのあとbjリーグに行ったのって、アイシンで働いてくれみたいな感じだったんだっけ?自分からやめるって言ったんだっけ?

喜多川:そうそう。自分からやめると伝えたね。

長谷川:これがすごいチャレンジングな決断だよね。だって、アイシンに残れば、その後もアイシンという大企業で働くことができるという保障があるわけじゃん。それを捨てて、bjリーグにチャレンジするという。脱サラプロ選手ということだもんね(笑)。

喜多川:そうだね(笑)。それも多分“ターニングポイント”というか。自分のバスケ人生の中でいろいろ決断してきた中で、大学の時にヘッドコーチのところに行ったことと、社員をやめてプロになったという決断は一番大きな部分で。実際、家族や子供もすでにいたから、アイシンに残っていた方がもしバスケットが駄目だったとしても社員で残れるから、将来は安泰だったわけで。だからそこを蹴ってまでプロの道に踏み出すという決断は、自分の中では一番大きくて、それほどもっともっと自分の力を試したいと思ってた。正直、アイシンの最後の2、3年はシーズンを通して少しは貢献できたかなという自信を持っていたけど、でも大事な試合で貢献できていない、チームのために何もできていないなということを強く感じていて。だから単純にここ(アイシン)から出て違うチームでやってみたときに、「どれぐらい自分ができるのか」というのを確かめたいという気持ちがすごい強くなって。だから社員を辞めて「移籍」という決断をしたと。

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長谷川:なるほど。アイシンに入ってからも着実にレベルアップして、試合にも出られるようになったとはいえ大事な時に出ていないとなったら、プレイヤーとして大事な試合に出たいと思うのは当然だよね。加えて、力はつけている時だったから、「自分の可能性をもっと追求したい」という感じだったのかな?

喜多川:そうだね。あとは来年もアイシンでやりますとなったときの、自分の役割やポジションがある程度想像できるものだったから、それでこれ以上の成長があるのか、プレイヤーとしてもっとチャレンジしたいという思いが強くなって。

長谷川:だからプレイヤーとして、より自分の力を試せるチームである琉球ゴールデンキングスに行ったと。普通の人だったら将来の不安をすごく考えたと思うんだけど、そこは実際どんな感じだったの?家族のこともあるしさ。

喜多川:ハセ(長谷川)からインタビューの話をもらったときにちょうど嫁とそういう話をしていたんだけど、「駄目だったらどうしよう」みたいなことは全然考えていなかった。もう「力試ししたい、レベルアップしたい」という気持ちが強過ぎて、不安とかは正直なかったかな。ただ、リーグが違う(NBLからbj)ところに入ったから、「bjで1年プレイしてからまたBリーグでしっかりできるかな?」という不安はあったかも。

長谷川:そっちの不安なんだね、やっぱり。ちゃんとパフォーマンスを出せるかという。

喜多川:そうそう。その不安はあったけど、別に失敗したらどうしようみたいなことはあまり考えていなかった。

長谷川:あと、これも多分、同じようにチャレンジしたいからということだと思うんだけど、琉球ゴールデンキングスでは“エース”だったじゃん。ただ栃木ブレックス(現 宇都宮ブレックス)というとさらに強豪チームでいろいろな選手がいるから、ゴールデンキングスのときと同じポジション/役割ができるかといったら、そこはちょっと分からないわけだよね?それでも、栃木ブレックスを選んだのは何でなのかなという。

喜多川:まあ重複するところもあるけど、試合に出られたりレギュラーになれる確約はないけど、同じポジションでレベルの高い選手達と練習から競い合えるという環境は成長する上で大切なところだなと思って。あとは、チームカラーとしてブレックス自体が本当に「チームで戦う」という意識が強くて。もちろん個々の力を発揮しなきゃいけないこともあると思うんだけど、試合の最終局面や大事な場面って、チームとしてまとまる必要があると思っていて。そこを考えたときにブレックスというチームは徹底していて、重要な局面でしっかりチームとして戦えるという強みがあったから、そういうところでやりたいという気持ちで移籍したかな。

長谷川:なるほど、アイシンから琉球に行ったのって、「試合の中でより貴重な経験をして成長したい」ということでしょ。それを琉球で経験してさらに成長したいとなると、もう練習からピリピリやることが必要になってきて。やっぱり「成長したい、うまくなりたい」という、本当にピュアで貪欲な気持ちがベースにあって、やっぱりそのために何をしたらいいのかというのがすごい考えられているんだなあと。

喜多川:常にそこは考えていたね。

5.転んで、転んで、転んで、起き上がる。「自分のすべきこと」を愚直にやり続けることが成功への道

長谷川:素晴らしい話だね。常に上手くなるためとか、自分の今掲げている目標を達成するために何をどう鍛えたらいいのかとか、何が課題なのかというのとかすごく考えて、しかもそれを行動するというのがね。これって実は、大学で中原さんに直談判したことの成功体験がでかくて、その後もやっぱりそれが活きているという感じなのかな?

喜多川:そうだね。あとはやっぱり、「やり続けることで成功できた」という体験があるからかな。たとえアイシンの時に試合に出られなかった時期があっても、しっかり自分が今やるべきことをやり続ければ、絶対にステップアップできるという自信が自分の中にあって、そういった経験から自分で決めたことは絶対にやり続けようと思ってた。

長谷川:素晴らしい。なるほどね、ただ行動するだけじゃなくてその後も継続していくと、試合に出られるようになったという。そこの成功体験があったから、ずっと苦しいときも信じられたというか。だから、ケガをした後もやっぱりそういう思いでやるべきことをやっていた?

喜多川:そうそう。バスケットをやり続けても結果が出ないこともあったけど、でもやっぱりそこは自分に負けないでずっとやり続けてどんどんステップアップしていって。去年結構大きなケガをして「シーズン中に戻れるか分からない」となったんだけど。リハビリをするほどのケガは初めてだったけど、今までバスケットやり続けて成功してきたという経験があるから、リハビリで辛い部分があった時も「絶対やり続ければいいことが待っている」というふうに自分に言い聞かせて。だから、やっぱり自分の軸をブレずにリハビリしたことで、今シーズン中に復帰はできた。去年は正直復帰しただけになってしまったけど、今年は今年でケガの前よりもパワーアップするという目標を掲げて、今準備を進めています。

長谷川:まさに今までの経験が活きたシーンだよね。あとはやっぱり、喜多川選手の座右の銘「七転び八起き」があるよね。

喜多川:そうだね、座右の銘というか好きな言葉というか……まあ座右の銘か(笑)。七転び八起きと言っても、実際にはそんなにすぐ起き上がれないし、七回転んで八回立ち上がるという感じじゃなくて。振り返ってみると転んで、転んで、転んで、一回ちょこっと上がって、また転んでみたいな繰り返しだね。ただ、ちょこっと上がったときの快感というか、嬉しさのような部分を知っているから、やり続けることができるのかもしれない。だから言葉というか、モチベーションというか。

長谷川:この言葉を意識するようになったのは、大学生くらいの時?

喜多川:ああ、そうだね……。大学とかで初めて試合に出られない時期を経験したからこそ、そういう言葉が好きなのかもしれない。

長谷川:今このトップリーグ、特にB1で活躍している選手なんてほとんどの選手が小中高のどこかのカテゴリで全国に出てるじゃん。でも喜多川選手はそういうプロセスじゃない。

喜多川:自分の長所じゃないけど、バスケでいろいろなことを経験できたというのがやっぱり一番大きくて。試合に出れなかった時期もある。試合に出続けていた時期もある。あとは、試合には出るけど控えから出るという経験やケガもして。ケガをした最中に考えることとか、チームを見て考えたこととか含めていろいろな経験ができたから、そこは自信というか、やり続けてきてよかったなと思うかな。

長谷川:技術はもちろんだけど、バスケIQというのかな。“成熟している”という感じだよね。選手として、もちろんいい意味でね。これまでのバスケキャリアのなかで良い時、悪い時と様々な経験値があるからこそ、いろんなことに対応できたり、アドバイスができたりと。
スキルや能力だけでなく、その経験値や人間力からくる対応力というか柔軟性も大きな強みだし選手として非常に魅力的なポイントだよね。
選手としてはベテランと言われる域に来たと思うけど、まさにそういった経験のなかで学んできたものが求められると思うので、まだまだ喜多川選手の成長、ステップアップは止まる気配なしですね!
今シーズンの活躍はもちろん、少しでも長く現役選手として活躍してもらえるよう、コムレイズ・インキュベートとしてもサポートしていきたいと思います!
今日は有難うございました!

喜多川:こちらこそありがとうございました。長く現役選手として活躍できるようこれからもやるべきことをやり続けて頑張ります!

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あとがき

桐光学園3年時に、喜多川選手がキャプテン、私が副キャプテンでした。私たちの代は周囲から大きな期待に反して、過去数年間で最低の成績で高校バスケを引退しました。そういった結果に私は心が折れて、バスケットボールへの熱を失ってしまったのですが、喜多川選手はそれを糧にさらに強い意欲を持ってバスケットボールに取り組んでました。その後はインタビューの通り、強い成長意欲と努力し続けるチカラ、そしてチャレンジ精神でステップアップを続けていきました。
私はそのような喜多川選手の姿勢に常に刺激を受け、心の底から尊敬し、また同じ高校のチームメイトとして私の誇りでもありました。
今回、このような形で応援することができ大変うれしく思うとともに、弊社従業員はもちろんですが、多くの方に喜多川選手の姿勢から何かを学び取っていただけると幸いです。